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Book Data : アフリカの日々 / やし酒飲み

『アフリカの日々 / やし酒飲み』ディネセン / チュツオーラ/河出書房新社

原題 :

OUT OF AFRICA / THE PALM-WINE DRINKARD

出版社 :

河出書房新社

原書刊行年 :

1937 / 1952

ISBN / C :

978-4-309-70948-2 / c0397

私的分類 :

アフリカ

備考 :

★★★

Note

池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 I-08

(付録「アフリカ、アフリカ」池澤夏樹 より)

『アフリカの日々』は幸福の記録である。事故の話や戦争の話、死の事情もいくつも出てくるけれども、それでもここには基本的に幸福な日々のことしか書いてない。

Quote

『アフリカの日々』

著者は、1914年から1931年までの18年間アフリカで農園を経営した、デンマーク出身の女性。(イサク・ディネセンはペンネーム。本名はカレン・ブリクセン。ディネセンは結婚前の姓)

(注意書き)下記の引用に意味はない。引用した箇所が、『アフリカの日々』のなかで最重要な箇所というわけではない。引用は単なる私的な備忘であり、それはこの『アフリカの日々』全体を通しての幸福な読書体験とは全く別個な動機からなっている。

(p.10 アフリカ)

この地こそ自分の居るべき場所なのだというよろこび

(p.13 コーヒー栽培)

いつでもなにかやることがあり、しかも決まって、適当な時期よりもやや遅れ気味になるものだ。

(p.16 ナイロビ)

人間が町にまったくかかわりを持たずに暮すことは不可能である。その人が町のことをよく言おうと悪く言おうと、たいしたちがいはない。

(p.17 ナイロビ)

「私と今の時とを十分に活かしてお使いください。こんなにも無軌道で荒々しい若い時代にお互いが出会うことは、もう二度とないのですよ」

(p.21 象の群れ)

象たちは、世界の果てに約束があるといった様子で、ゆっくりと、決然たる歩調で進んでいった。

(p.22 静止と沈黙)

文明化した人間は静止する力を喪失しているので、野生の世界に受け入れてもらうためにはまず沈黙を学ばねばならない。

(p.25 アフリカの教え)

アフリカこそが教えてくれるもの、それは、神と悪魔とは一つのものであり、共に永遠性を分かちもつ偉大なるものであり、原初から在る二つの存在なのではなく、原初から在る一つのものだということである。

(p.26 時間A)

農園での暮しがひどく孤独に思えるときがある。夜の静けさのなかで時計が一分また一分と時をしたたらせ、それといっしょに自分の人生が空しくしたたり落ちてゆくような気がする。

(p.30 キクユ族)

キクユ族は予期しないことに適応できるし、意外な出来ごとに慣れている。白人はほとんどの人たちが不測の事態や運命の打撃にそなえて安全を確保しようとするが、キクユ族はちがう。黒人は運命に親しみ、常に運命の手にみずからをゆだねる。

(p.167 来客)

開拓地という場所では、手厚いもてなしは旅人にとってだけでなく入植者にとっても、生きてゆくうえで欠かすことのできないものである。孤立した場所に住む人びとは、情報に飢えているので、よしあしを問わず、ともかく新しい情報を伝えてくれる来客はいつでも歓迎される。

(p.237 物語を〈聴く〉能力)

デニスは私にとって大変貴重な特徴があって、それは物語をきくのを好むことだった。というのは、あるいは私はフィレンツェでペストが流行したときに異彩を発揮できたかもしれないと、いつも思っていたからである。あの時代にくらべて流行はかわり、物語に耳をかたむける技術はヨーロッパでは失われた。文字を読めないアフリカ人たちは今もこの技術を身につけている。「ある男が野原を歩いておりました。歩いていると、そこでもう一人の男に出会いました」という具合に物語をはじめれば、語り手はもう完全にアフリカ人をつかむことができ、彼らの思いは野原にいる二人の男たちの歩く道を想像し、そこを共に歩くのだ。だが白人は、たとえ耳をかたむけなければと思っていても、物語を聴くことはできない。そわそわしてきて、今すぐしなければならないことを思い出したり、そうでない場合は眠りこんでしまう。そのおなじ人たちがなにか読みものをほしがり、内容はなんであれ印刷物を渡されると、坐りこんで夜おそくまで読みふけるのだ。彼らは演説でさえ印刷されたかたちで読みたがる。白人は眼を通じて印象を受けることに慣れきってしまったのだ。

(通りすがりの閲覧者のための、引用者からの註:ただしデニスは黒人ではない。〈聴く〉ことのできる稀な白人ということになる。さらに付け加えておけば、「文字を読めないアフリカ人たち」という語が、アフリカ人全般を指しているわけではないので、この点も誤解なきよう)

(p.240 早朝の幻想)

アフリカ高原の早朝の空気は手でさわれるほどのつめたさと新鮮さをそなえていて、そのなかにいるごとに、くりかえしおなじ幻想に誘いこまれる。地上にいるのではなく、暗く深い水のなかにいて、海底を前進しているという幻想である。

(p.245 生命の無価値と自由)

「さあ、一緒に出かけて、生命を不必要な危険にさらしていただけないかしら。もしも生命になにかの価値があるとしたら、生命は無価値だということこそ、その価値なのね。自由に生きる人間は死ぬことができるという言葉があるでしょう」

危険だけれどなさねばならない何かの仕事を、もしこんな風に誘われたら、ちょっと断り切れないよね。

(p.257 時間B)

土地の人たちはスピードがきらいである。白人が騒音をきらうのとおなじで、スピードには耐えられないのだ。時間についても、土地の人たちはゆったりした友好関係をたもち、退屈して時間をもてあますとか、ひまつぶしをするとかいうことはまったく考えてもみない。実際、時間がかかればかかるほど、彼らは幸せなのである。たとえば、友人を訪問するあいだ、あるキクユ族に馬の番をたのんだとしよう。すると、彼の顔つきは、その訪問がなるべく長びけばよいと思っていることをあらわに示す。彼はそういうとき、時間をつぶそうとはしない。腰をおろし、しずかに時の流れと共に生きてゆくのを楽しむのだ。

(p.386 まっすぐな道)

イギリスのおだやかな風景のなかの小川と、アフリカの山地の尾根とのあいだに、デニスのたどった生涯の道がある。その道が曲折し、常軌を逸していると見えるのは目の錯覚である。彼をとりまく環境のほうが常軌を逸しているにすぎない。

(p.403 人間の分類方法)

私はいつも人間を、その人がリア王に対してどのようにふるまうだろうかという架空の条件によって分類することにしてきた。理屈でリア王を説得することはできない。それはキクユ族の老人に対する場合もおなじである。はじめからキクユ族の老人は、他人にむかって過大な要求をしてくる。しかしともかく、彼も一人の王なのだ。

(p.405 軽やかな存在)

だが、無一物となったとき、私は運命によってやすやすと取りのぞかれる、軽やかな存在に変身していた。

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