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Book Data : 歌の祭り

『歌の祭り』ル・クレジオ/岩波書店

原題 :

LA FÊTE CHANTÉE

翻訳者 :

管啓次郎

出版社 :

岩波書店

原書刊行年 :

1997

ISBN / C :

4-00-022202-3 / c0098

備考 :

目次

  • 歌の祭り
  • インディオの書三つ

    『フィレンツェ絵文書(コデックス)』『ミチョアカン報告』「チラム・バラムの書」

  • ミチョアカン、神々の征服
    • 空の扉
    • タリアクリあるいは黄金時代
    • 樵夫領主たち
    • チチメカの平和
    • 鷲たち
    • 兄たち
    • カツォンシ
    • 神々の没落
  • 祭りから戦へ
    • エクアタ・コンスクアロ/クインゴ
    • アンツィウアンスクアロ
    • イクアンディロ、シクインディロ
  • 先住アメリカの黄金の夢
  • チチメカ人
  • インディヘンスモと革命
  • アメリカ先住民神話と文学

    ミゲル・アンヘル・アストゥリアス ホセ・マリア・アルゲダス フアン・ルルフォ

  • 豊饒の角
  • タレクアトのハコボ・ダシアーノ
  • メキシコ、三つの礼讃
    • サン・ホセの雷雨
    • ミチョアカン州サン・フアン・パランガリクティロでの舞踏
    • キンタナ・ロー州チュンポンでのトウモロコシの礼拝
  • 鳥の人々
  • ジビルノカク、夜の書
  • 先住民の声──リゴベルタ・メンチュー
  • すべては結ばれている
  • 大洪水に抗して踊る

QUOTE

(p.003)
二十年ほど前のこと、一九七〇年から一九七四年まで、ぼくはパナマのダリエン地方に住むアメリカ先住民の人々、エンベラ族およびその親族にあたるワウナナ族と、生活をともにする機会を得た。この経験は、ぼくの人生をすっかり変えた。世界および芸術についての考え方、他の人々との付き合い方、歩き方、食べ方、愛し方、眠り方、さらには夢にいたるまで、すべてを変えた。
(p.005)
森では黙って歩かなくてはならないことも学んだ、立ち止まることも腰をおろすこともなく、すべての感覚を目覚めさせて。ジャガーは牙で獲物を噛み殺すのではなく、拳で殴り殺すのだということも学んだ。まるで石みたいに固い、胼胝があるのだ。(中略)ぼくはまた、白いダトゥラ〔朝鮮朝顔〕の神であるイワが、その葉の汁を飲むものに語りかけてくるということを学び、あらゆる木々には眼があってきみをじっと見ていることや、川の反対側の岸には人間たちの家々にむきあうかたちで精霊たちの村があり、精霊たちは夜毎に炎となって踊りながら水をわたってくるということも学んだ。
(p.006)
ぼくは家具をもたないことの贅沢を発見した。
(p.012)
ある晩、彼はぼくにダトゥラの葉をすりつぶした汁を、小さな瓢簞に入れて飲ませた。人それぞれに、適量がある。それを超えれば、気が狂う。適量は、小指の爪の長さに現れている。
(p.013)
こうして、ぼくはそれを書くことを断念し、覚え書きも紛失してしまった。なぜなら、あるものは、失くすことによってはじめて得られるのだから。
(p.032)
偉大な歴史譚は、創世記でもある。大地の創造、最初の住人、神々の到来、神々による創造物について、われわれに語ってくれるのだ。しかも、単純さをもって語る。まるで世界とは、ある一民族にむすびついたこの領土だけであり、境界を越えれば夢のように非現実的で危険な別の生、別の時間があるのだとでもいうように。イランの人々の最初の物語、巨人ギルガメシュの叙事詩、あるいはイスラエル民族の起源、あるいはギリシャやスカンジナビアの伝説、どれをとってもそうだ。歴史のはじまりには必ずこうした聖なるテクストがあり、それはある民族、言語、宗教、政府の出現を、もっとも古い神話にむすびつける。それらはまた世界の最初の創造を語る文書でもある。さまざまな場所が、いかにしてそのように名付けられたかを、教えてくれるのだから。名付けることにより人間は、山々を、河川を、泉を、森林を無から引き出し、将来、町や寺院を建立するための土台を発見する。突如として人間と神々の出会いの時を創出しつつ、こうして大地を所有することが、歴史の真の源泉なのだ。
(p.156)
創造は破壊にむすびついている。古代オルメカの伝説では、ジャガーが宇宙を生み、またむさぼり食う。
(p.158)
地獄に下るとは大地母神の子宮に帰ることであり、そこに生命のすべての秘密が隠されている。
(p.181)
とりわけ、女たちだ。彼女らはとても美しく、とても感動的だ。女たちがこんな風であるのは、この村だけだ。他の場所、たとえばパツクアロ、アンガウアン、あるいは周囲の植民地町では、女たちは美しく優雅で洗練されてはいるかもしれない。しかしここタレクアトでは、彼女らは魔法であり、力にみちている。細身で背が高く、暗い青色の長い服とはじけるような花の刺繍のあるブラウスを着て、顔と肩は青と黒のレボーソにつつみ、彼女らは人生の一瞬一瞬のもっとも小さな仕種のうちに、時のもっとも奥深くからやってきて、彼女らを作り出したこの土地に彼女らをむすびつけている力をたずさえているのだ。
(中略)
彼女らの美しさはゆるぎなく、晴朗で、背中までゆたかに流れる黒髪のようになめらかだ。彼女らの美しさは、周囲の世界の変化に無関心だ。他の土地では男も女も、自分たちの惨めな生活をやわらげてくれるもの、渇きや飢えや欲望をついにいやしてくれるものを、無為に待っている。けれどもここ、雲をまとう火山の高みに島のようにとまっているこの遠い村で、タレクアトの女たちは待たない。彼女らは空の深い青や光の黄金食を身につけて、ただ彼女ら自身でいるだけだ。
(中略)
大地には、あるいは大洋の真只中でも、稀にそんな力を持つ場所があるものだ。われわれの心を乱し、試練を与える場所が。サイレーンの歌が聴こえ、妖精たちのつぶやきが聴こえ、水の、光の、樹木の、誕生が見える。眼から見たこともない光を放つ、最初の女性が見える。そんな場所がもつ力だけが、われわれを変えることができる。なぜならそれは、われわれに世界の真実、世界の魅惑を教えてくれるのだから。
(p.183)
何か聖なるものがある場所は、どこもそうだ。孤立し、孤独と風にかこまれ、とても高く、空に近い。
(p.206)
これらの夜は変わらない、読書と記述の夜だ。そしてトゥサケ川のほとりの小屋のエンベラ族の少年と、焼けた森のまんなかの寺院にひとりいるマヤの老いた記録官は、おなじひとりの人間なのだ。

(奥付:著者紹介より)

(ジャン・マリ・ギュスターブ・)ル・クレジオ J.M.G.(Jean Marie Gustave) Le Clézio
1940年、地中海岸のニース生まれ。父方はブルターニュからインド洋モーリシャス島に移住した家系で、19世紀初めに同島が英領となったとき英国籍に。母も同様の家系だが、パリ出身。両親はいとこ同士で、父親が医学を学んでいたロンドンで出会った。ニースで生まれたのは偶然だが、戦時下の幼時、米独双方によるこの町の破壊に強い印象をうけて育つ。ニース大学およびイギリスのブリストル大学で学ぶ。1963年、『調書』で作家としてデビュー。『発熱』(65年)、『洪水』(66年)、『物質的恍惚』(67年)などの初期作品群を次々に発表し、ヌーヴォー・ロマン全盛期の首都からは距離を置いた独自の作家的地位を築く。ロートレアモン、アルトーやミショーへの関心から分かるとおり、当初は言語実験的色彩が濃厚だったが、文体はやがて簡素・平明に。むきだしの土地、陽光、砂漠、水、動植物がおりなす物質的世界に対する異様なまでに鋭敏な感性に加えて、アメリカ先住民世界への深い共感を際立った特徴としている。70年から74年にかけてパナマの密林に住むエンベラ族と暮らす。この経験から生まれた傑作エッセー『悪魔祓い』(71年)以降、70年代後半からメキシコへの傾倒を深め、ミチョアカン大学や、プエブロ・インディアンの土地であるアメリカのニューメキシコ大学で客員教授を務めつつ、ヨーロッパによる先住アメリカ文明に対する侵略と強奪という、人類史上もっとも大規模で残虐な破壊の歴史を考察。「チラム・バラムの書」『ミチョアカン報告』のフランス語訳(76年、84年)を試みる一方、『メキシコの夢』(88年)に結実するエッセーを書き継いだ。本書『歌の祭り』(97年)はこの系列の集大成にあたり、端正な乾いた文体によって地水火風の運動に強く反応しつつ、失われた土着の宇宙とその残照を想起し、ヨーロッパによる他の諸世界の破壊の上に立つ現代文明への批判を、しずかに物語っている。

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