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Book Data : ナジャ (1963年の「著者による全面改訂版」)

『ナジャ (1963年の「著者による全面改訂版」)』アンドレ・ブルトン (André Breton)/岩波文庫

原題 :

Nadja

翻訳者 :

巖谷國士

出版社 :

岩波文庫

原書刊行年 :

1928-1963

ISBN / C :

4-00-325902-5 / c0197

私的分類 :

シュルレアリスム

備考 :

Quote

ナジャとブルトンの邂逅の場面(強調部分は引用者による)

とつぜん、まだ十歩ほど先だろうか、逆方向からひとりの若い女がやってくるのを見る。とてもみすぼらしい服の女で、むこうも同時に、あるいはもっと前から、私を見ている。ほかのすべての通行人と反対に、頭をまっすぐに高くあげて進んでくる。とても華奢な体つきで、ほとんど地に足をつけずに歩いている。なにか目に見えない微笑がその顔にうかんでいるようでもある。奇妙な化粧をしていて、目からはじめて途中で時間がなくなった人のようだが、その目のふちだけはブロンドの女にしてはとても黒い。それは目のふちで、けっしてまぶたではない(中略)。私はいまだかつてこんな目を見たことがなかった。ためらわず、ただし最悪の事態も覚悟していたことは認めるが、この未知の女に声をかける。彼女はほほえむ。だがそれはひどく秘密めかしていて、そのときにはとても信じられなかったことだが、事情はわかっているというような微笑である。(中略)もっとじっくり彼女を見る。この目のなかにひらめくこんなにも異常なものはいったい何なのか? この目のなかにぼんやりとうつしだされる苦悩のようなものは、同時にきらきらとうつしだされる倨傲のようなものは何なのか?

Note: 2005/08/16

 3年前に読んだ白水Uブックスの『ナジャ』は 1928年刊初版の翻訳であり、今回読んだのは岩波文庫の「著者による全面改訂版」1963年刊の翻訳。確かに『ナジャ』という作品の印象がそれほど大きく変わるわけではないが、しかし全く訳注のなかったUブックス版(これはもちろん訳者の意図によるものだ)に比べ、岩波文庫版はテクストとほぼ同量の注が加えられている(これももちろん訳者の意図)こともあって、より深く『ナジャ』の世界が理解できるようになっている。とはいえ、あまりに詳細な注ゆえ、その半分くらいは読み飛ばしてしまったが、まあぼく程度の読書ならそのくらいで丁度いいのだ。

 さて、3年前にはどうもよく納得できなかったが、今回の読書で明確になったことがひとつある。それは、『ナジャ』は小説なのか? という疑問だ。Uブックスのカバー(と扉)には「小説のシュルレアリスム」と銘打ってあるから、よけい紛らわしいのだが、少なくともこの作品はフィクションではない。全て事実が綴られている。語られていない事実も多いらしいが、しかし語られている内容に嘘はない。事実とはいえ私小説ともまた一線を画す(というか大体、私小説って日本独自のジャンルだったっけ? いわゆる私小説、ぼくはちょい苦手で、あまり読めない。だからよく知らないことについて断定するわけにもいかないけれど、それでも──たとえ『ナジャ』が冒頭の「私とは誰か?」で始まる文字通り〈私〉探求の作品だとしても──私小説とは呼べないだろう)。そもそもブルトン自身がのっけから既存の小説を嘲笑している以上、この作品が小説であるわけがない(ナジャはブルトンに小説を書かせたがっていたようだが)。というわけで、この作品はドキュメントなのである。──もっとも、そうとわかったのは、自分で考えたからではなく、文庫のカバーにちゃんと「ドキュメント」と書いてくれてあるからである。ちゃんちゃん。

 まあ、この作品が小説であろうとドキュメントであろうとその価値に変わりあるまいと主張する人もいるかもしれないが、フィクションであるかノンフィクションであるかというのは、ぼくにとってはかなり意味が違う。基本的に事実より虚構(架空の絵空事、それも奇想天外であればあるだけなおいい)をより好む傾向のある人間だけに余計そこははっきりさせておきたいのだ。確かに虚構だろうと事実だろうとどちらも人間の脳内で起こる事件であるということに変わりはないが、しかしそうであればこそ、ある程度までは線引きしておかないと(厳密に区別することは不可能)、この社会ではうまく生きていけないようだから。──これはそのままナジャの悲劇に繋がる。超現実(強度の現実)を生きることは、その危険を冒す勇気のあるものだけに与えられた特権のようなものだ。

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